こちらのページを訪問下さりありがとうございます。台湾にゃも(@Shohei192)です。
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140文字のサクッとプロフィール
22歳 世界一周を決意
25歳 3年働いた大手企業やめてホストになる
26歳 グループ最短No.1になり、スロプロになる
27歳 オーストラリアワーホリ
28歳 世界一周
29歳 日本に帰ってAmazon就職
30歳 ギリホリでカナダ
31歳 台湾彼女と結婚し、台湾へ移住
33歳(今年) 台湾法人立ち上げ
— にゃも@台湾住み🇹🇼海外に出る人全力応援📣 (@Shohei192) 2018年10月16日
以下、にゃもの経歴を全てまとめています。さっと読めば、5分程度で読み切れる内容となっています。
幼稚園~高校生のにゃも。ゲーム漬けの毎日
東京都中野区出身。幼稚園から小学校4年生までは親の都合で埼玉県の奥地に住んでいました。くっそど田舎で友達とサッカーして遊ぶ毎日。
しかし、持ち前のポジティブな性格とゲーム好きが功を奏し、幅広い友達に恵れました。
小学校、中学校、高校の頃は友達の家で、ゲーム漬けの毎日。お母さんがキャバクラで働いている友達の家に入り浸り、夜までずっとゲーム。典型的な東京カースト下位グループ。
学校では全く授業を受けず、ゲームボーイ、コミックブックスを読みふける日々。全く優等生ではありません。笑
どれくらい優等生でなかったかと言うと、読書感想文は毎回ファイナルファンタジー。
成績も悪かったのかというとそうでもなかった。先生の授業をフルシカトして自分のペースで教科書を読み自主勉したため、成績では小中高校一貫して、上位5%。
この教科書勉強法で、自分で勉強してわからないことはないという自信と自分で考える力が身についた。
小学校の6年生の学級崩壊したその日から高校卒業まで授業をほとんど聞いた事はありません。(威張れない)
親からのお小遣いは雀の涙程度だったため、トレーディングカードを売って生計をたてていた中学時代。
遊戯王とマジックザギャザリングがなかったら、とっくに文無しになっていました。この時に人生で初めて、楽してお金を稼ぐことの喜びと、先行者利益を知る。
150円で売っているパッケージから、レアカードであるマジックマジシャンを引当て、3000円で買い取ってくれた東中野のドラゴンというトレカショップ。
中学生にも関わらず、日当で5千円~1万円稼げていた。どうやって稼ぐかはGoogleで「トレカ サーチ」で調べると出てきますので知りたい方はどうぞ。
大学時代のにゃも。スロットにハマる
このときのぼくは、まだ親からの意見を断固拒否できるパワーがなく、半ば強制的に進学の道に進みました。受験はしたくないので、推薦で入れる青山学院に出願し合格。
せっかく入った大学なので大学生活を楽しもうと頑張るが、1年半年で息切れ。サークルでリア充感じたかったのに・・・・。
そもそも小中高帰宅部だったから、団体行動に馴染めるハズがないと気付いた大学時代。結局、仲の良かった小・中学生の頃の友達と遊ぶ日々。ヲタクからチャラチャラした奴まで友達の幅が広かったです・・・。
そして、彼らからスロットという楽しい遊び方を教わり、エリート教育を受けました。
毎日、大学に行かず、スロ屋の前に並び続けました。大学に行っても授業の途中で抜け出して、スロ屋で入り浸る日々。もちろん、スロットにハマってからの成績はボロボロでした。
大学生を時給で雇い、ノリ打ちグループを結成。中野ではプログループと呼ばれるまでになり、2ちゃんに叩かれました。笑
月収は40万に達し、ATMへの入金が忙しい毎日。中野ゴードンの島唄で25万円負けたのと、中野ジパングのイベント時にキングオブマウスで32万円勝ったのが上下の最大風速。
こうして、大学は友達作りのために行けと親に言われたのにも関わらず、出来た友達はニートと中退組。またしても東京カースト最下層民。
スロットに明け暮れていたぼくに無慈悲に訪れた就職活動。
ちょうどその頃に、友達に勧められた本「アドベンチャーライフ 愛する人と自由な人生を」読み、完全に感化される。将来は世界一周して、その後は起業してお金を稼ごうと決意。
▼人生を変えた一冊▼
それと同時に友達に連れられて初の海外旅行(カナダ)を経験。
英語が全くわからず、悔しい思いをした日々。だけど、自分の知らない世界がこんなにもあるんだ!と気付けた、人生の中で最も貴重な体験でした。
就職活動。大手のみ絞って受けまくる
「東京勤務」「高給取り」「営業またはコンサル採用」をターゲットにし、就職活動を本格的に行いました。
✔「東京勤務」=友達と離れるのが嫌だった
✔「高給取り」=世界一周のお金を貯める
✔「営業またはコンサル」=将来独立したときに必要なスキル
という単純な明快な理由。
大企業だけを給与ランキングから見て就活するなんてナンセンスだ!という就活課のアドバイスをフルシカトし、60社受けて内定獲得。東京に本社を構える大企業に入社。
これが、よくなかった・・・。
▼社畜時代の記事はこちらをどうぞ▼
社畜時代。いじめと過労で自殺寸前
残業時間月平均130~150時間。社畜の仲間入りを果たしました。
元々、3年間お金を貯めて、スキルを磨いて辞めようと思っていたので、それだけを心の支えとして働く毎日。
営業に関する基本スキルを学べたのはありがたかったのだが、パワハラとサービス残業だけはどうしても許せませんでした。
パワハラとイジメの原因は給与格差。本社から出向組のぼくは、子会社の先輩方より給与が多かったのです。もちろんこれをよく思う先輩なんて1人もいない。
「給与泥棒」と言われ続け、先輩から給与明細を見せろと恫喝される日々。(本社の意向で給与開示は禁止)
さらには・・・
✔先輩にパチンコ屋に呼び出され、カツアゲ
✔先輩がお客さんから引き受けた産業廃棄物を川へ捨てて来いと無理やり夜中に呼び出さる
✔飲み会では3年間、最年少だった自分がいつもお金を集める係で、会費を集める前にバックレ
✔上司から人格否定のパワハラ。朝礼時に全員の前で公開処刑
あまりにもブラックな職場で、鬱病になった同期は数知れず。
自殺してもいいかなぁ・・・と、プラットフォームから電車を眺めてた回数は1度ではありません。
3年働いた後、会社を訴えてサービス残業代を請求する事に成功。飯田橋にあった労働基準監督署から前代未聞の金額だと言われる。(そんなはずないと思うが)
その後、ぼくの事例が外部機関にバレて、会社へ業務監査が入りました。日経新聞の一面にこの事がニュースに。
上司は東京から地方に飛ばされ、会社は残業にとても厳しくなる結果となり、同期から感謝された。
歌舞伎町ホスト時代。ナンバーワンを目指す
歌舞伎町でホストをやると決めた理由は以下の3つ。
✔海外に行くお金をもう少し貯めたかった
✔失業保険が受給完了されるまでやることがなかった(要7ヶ月)
✔学歴も何もないところで純売上を争ってどこまで上に行けるか知りたかった
ここらへんからぼくのアウトローな人生が開幕。
ホストになるのは、人生訳ありの奴が圧倒的大多数。関東連合あがりの人たちと血の気の多い怒涛の日々。そして、歌舞伎町周辺で毎日ナンパ。
ところが、働き始めて3ヶ月経過した頃からなんとなく指名をとるコツを掴み始めました。
メールを送りまくり、可愛い子、ブサイクな子、お金なさそうな子、とにかく全員にベストな接客を心がけた。
気が付くと入店3ヶ月目でナンバーワンになっていました。
ホストのコマーシャルや看板にも自分の顔がのり、なんでも考えぬいて努力してやれば結果が出ることを再確認。
この時の月収は80万円~90万円。しかし、毎日1000通近くのメールをさばくのとお酒を飲む生活に嫌気がさしていた。
結局、7ヶ月目で辞めました。なかなか辞めさせてもらえず、結局飛んでしまった。(翌日から連絡なしで出勤しないこと)
探偵に探される日々を過ごしながら、都内のマンションで4ヶ月引きこもり生活。
他人の名義でマンションを借りて、生活をしていたのに、ネットの掲示板には目撃情報が書かれていてマジでビビった・・・。
ワーキングホリデー&世界一周
オーストラリアでワーキングホリデー
そしてついに、世界一周を心に決めました。世界一周には少しだけ英語がしゃべれた方が良いだろうと思い、ワーキングホリデービザを取得し、オーストラリアへ。
海外で仕事がしたかった夢が叶う。
奇跡的にホワイトカラーの仕事を手に入れ、彼女もでき(現在の嫁)、順風満帆な1年のオーストラリア生活が終わり、世界一周の旅に出始める。
世界一周中にインドで昏睡強盗
オーストラリアでワーキングホリデーを1年間した後、世界一周を開始。
しかし、東南アジアを旅した後のインドで問題は起こりました。
電車の中で睡眠薬強盗に合い、荷物もお金もパスポートも全てを失いました。
▼詳しい記事はこちら▼
パスポートもお金もない中、ホテルをまわりにまわった。もちろん一文無しのぼくは門前払い。
中には、「シャワーを貸してあげるから、入りなよ」と言ってくれる人や、ご飯を食べさせてくれる人。なけなしのお金をぼくにくれた人など、人の優しさに触れました。
そして最終的に、デリにあるゲストハウスで、食事と寝る場所を提供してもらうかわりに、ゲストハウスの受付をして働きました。
無一文でホテルで働きながらパスポートとクレジットカードを再発行し、インドを出国。
世の中、全てを失っても気合いがあれば、なんとかなると知りました。
イギリスへ3ヶ月滞在の後、更にヨーロッパ中を旅行し45カ国に達したところで、帰国。夢だった世界一周旅行は終わりました。
アマゾンへ入社しすぐに退社。カナダのワーホリへ挑戦
中途の即戦力社員を大量募集していたので、タイミングがよかったのだと思います。
そこで、MBAを保持している上司のパフォーマンスに感動しました。
って思いました。それくらい自分より能力のある先輩社員が沢山いました。
シアトルに住んでいる自分の上司達の共通点を聞いてみるとMBAでした。
昔は、「MBAなんてコスパが悪い」とか、「MBAでキャリアに穴空くくらいなら働いた方がいい」なんて事を聞いたりしていたので、全然自分の事として考えた事なかった。
しかし、今目の前にいる優秀な人達の卵が集まっている学校で、一緒に勉強したい!って強く思ってしまったのです。
そうなってしまったら居ても立っても居られなくなり、退職。
そして、フィリピン留学が終わったと同時にカナダに行きました。ワーキングホリデーでガッツリ英語環境で働き、残りの時間全てを英語の勉強に費やしたかったからです。
本気で勉強してハーバード大学のMBA取ろうと頑張り始めました。笑
なぜ、ハーバード大学だったかと言うと、やるからには1番難易度が高い大学に挑戦してみたかったのです。カナダで現地の会社に働きつつ、全ての時間を勉強にぶち込みました。
そして、1年の猛勉強の末、学力が入学レベルに達した時、お金の壁にぶちあたりました。トップMBAを取得するには2000万円程度のお金が必要という事に愕然。
うすうす金額の事については感づいていました。しかし、MBA留学費用を見てしまったら、その金額だけで諦めてしまいそうだったのと、受験して受かってしまえば、お金は親や友達に頭を下げてお願いしようと言う、あまい考えをしていました。
台湾人の彼女とこれからどうしようかと、シェアルームで緊急会議。
▼出会いから結婚までのストーリーはこちら▼
台湾移住を決意。2度の起業失敗
台湾の方が他の先進国に比べて、ビジネスチャンスは多いだろうし、2000万円は本気を出せばなんとかなるだろうという軽い気持ちで移住。
しかし、中国語がしゃべれない上に、嫁の故郷(限界集落)に住んでいるので仕事が全くありませんでした。
求人情報を見たら150元(525円)のオンパレードで絶望。一番割のいい仕事が、ビニールハウスを組み立てる日雇いのバイト。しかし、古い小屋からビニールハウスに登ろうとしたら、小屋が古すぎて崩れて屋根から用水路に落ちました。。。
幸い怪我はほとんどなかったのですが、
と、確信しました。
幸い、カナダで働いた時の職場の上司から連絡があり、在宅で翻訳の仕事をさせてもらえるようになりました。奇跡って起こるんですね。
それと同時に、農業の会社を立ち上げるが、赤字の連続かつ農業に情熱がないことに気づき、1年でビジネスをたたみました。これはあまりにも辛かった体験なので、いつか記事にまとめたいです。笑
その次は、自宅の一部を利用して、英語教室を作りました。教師は妻です。笑
小学生向けの英語塾を作ったのですが、英会話というよりも完全にしつけの時間ですね・・・。子供のしつけに消耗してしまい、こちらも半年程度でビジネスをたたむ事に。。。世の中、そんなにすぐにうまくいかないんですね。
現在は台湾の現地企業から様々な仕事をもらいつつ、ブログからの仕事をメインに台湾の台中で精力的に活動しています。
2018年6月にブログ初心者ながら、初心者用のブロガーサロンを開きました。
これからは、更に人生を楽しむように「好きな仲間と海外でビジネス」する事に注力していきます。
新しい住まいのプールとバスケットボールコートとシアタールーム。
3年半前、貯金0、収入0、中国語0、人間関係0の状況から国際結婚したのを考えて、じーんとした。
数年で人生って劇的に変わりますね。
今後も地道にマイペースで頑張ろう。 pic.twitter.com/ieOYCiHWqp
— にゃも@台湾台北・台中🇹🇼 (@Shohei192) September 1, 2019
日本で今の生き方でいいのかな、海外に興味あるのだけど、何から初めていいかわからないという人はぜひ、上記のマンションに遊びに来て下さい。
プロフィールを最後まで読んで下さりありがとうございました。
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